2015年10月14日水曜日

多屋謙吉の草稿「東睦和尚の事」あおい書店から翻刻出版 「あとがき」

あとがき

 あおい書店に行けばナニカアル。何かがあって何かが見つかる。釣り、ファッションからゲームまで月刊雑誌はなんでも揃っているし、田辺の地史に関する物はなんでも揃っている。もしも見つからなくても落胆する必要はない。聞けばいいのだ。店主の多屋朋三氏の頭の中にはすべてが収まっている。
 南方熊楠が多屋謙吉に出したハガキが見つかったと店主から見せられたのは今年(2015)の7月であった。中屋敷に住む熊楠が上屋敷に住む謙吉に投函したもので消印は昭和3年6月22日。わざわざ投函するまでもない距離だという。そして『南方熊楠全集』にも『南方熊楠書簡集』にも収録されていないという。内容は、和歌浦の「和中金助氏拙宅ヘ来リテ」同氏秘蔵の『南海先生後集』を「出板シタルニ付キ五百部ノ内三部吾ニクレタリ」。その一部を「貴下ニ進呈ス」というもので、これは大変・・・。祇園南海研究には新しいことが書かれているではないか。つまり、和中金助が鈴木虎雄の題辞を得て『南海先生後集』を出版したのは昭和3年4月なのだが、和中金助は刷り上がったばかりの書籍三部を抱えて南方熊楠邸まで届けたことがわかる。この書籍は和中金助が自ら所蔵する祇園南海の詩稿をもとにして編んだ貴重なもので、当然のことながら従来の『南海先生文集』には收められていない詩文ばかりである。その発行部数はこれまで不明であったが、初めて500部であったことが分かった。とりわけ南方熊楠と和中金助及び多屋謙吉との交流がよほど親密であったと分かることが大きい。
 その親密さを伺わせる末尾の一文はいかにも熊楠らしい。「甚タ愛ラシキ犬ノ子」が6疋産まれたので欲しい人に差し上げたいが、但し「虐待ナトスル人ニハ上ゲル事ナラヌナリ」と釘を刺している。子犬が産まれたのは「前月十七日ノ夜」というから、熊楠はひと月余りの間6疋を育てていたことになる。たった一枚のハガキだがそこから読み取れる内容はまことに多い。
 実は、ハガキと共に見せられたのが多屋謙吉自筆の原稿「東睦和尚の事」(23枚)であった。無造作に束ねられた四百字詰原稿用紙は、見るからに未発表のまま筐底にあったと思われた。ここにこれを翻字して世に公表する所以である。
 多屋謙吉は上屋敷町で質商を営んだ経済人で、上屋敷信用組合の初代組合長を務め(大正9~15年)、明治の日露戦争では功績で叙勲を受けた軍人でもあり、田辺町議会の議員を八年務めた公人でもあり(大正6~14年)、また、木人と号し、玉生堂と称した俳人でもあった。著作としては田辺藩の学問教授方で漢詩人の池永源蔵、字は寿散を論じて『牟婁新報』に連載した「詩集から見た池永寿散」がある(大正12年11月)。(『田辺町誌』)
 「東睦和尚の事」を翻字しながら思ったことがある。その一つは著者が東睦に関する文献を博渉していることで、長い年月をかけて『築山染指録』や『日本印人伝』、「睦庵書簡」を収集したと思われる。文献には漢文で書かれたものがあるが、著者が原文を読み下した訓読は基本をふまえたもので、僭越ながら言わせていただければ、漢文の素養が高く、しかも禅語を駆使する素養があるということである。その二つめは著者によって初めて知ることができた『築山染指録』についてだが、現在見ることができる1975年刊行の帙入り複製本も、筑波大学図書館蔵の和本(稀覯本)も、それぞれが別種の版に拠っていて両本の間には異同があり、著者が引く『築山染指録』とは異なることが判明した。著者が見た『築山染指録』は東睦和尚自筆の稿本で、田辺の佐山徐林所蔵のものだと著者みずからが記しているが、この本こそ真の『築山染指録』だと言える。上記の両本はこれを書き写したものの、書き手の誤写が生じたきらいがあり脱落部分がある。東睦和尚は田辺の海蔵寺第十五世の主僧であるから、その自筆の稿本が同じ田辺の佐山徐林の手に渡って不思議はない。この稿本の行方は現在不明なのだが、あおい書店の店主によっていずれ見つけ出されることと思う。その三つめは天保五年(1834)に田辺、白浜を旅した阿波の国香軒蘭秀の紀行文「温泉の日記」(自筆稿本、和文)の存在である。この稿本は現在和歌山県立図書館に蔵されている一冊のみの、まさしく天下の孤本で、そこには海蔵寺を訪れた時に見た東睦和尚建立の天授院のことがしるされている。天授院竣工は文化十三年(1816)であるから、建立後18年の天授院を国香軒蘭秀は見たのである。天授院はその20年後の安政元年(1854)に焼失したから、この見聞記は貴重である。また、「温泉の日記」には絵地図が描かれ、白浜臨海浦に現存する塔島を、二つの洞穴を持つ島として描いていることが注目される。現在塔島に洞穴はないが、もとはあり、しかもその数は、三から二へ、二から一へ、一から零へと変化したからである。「温泉の日記」はその二洞穴の景観を描いている。
 なお、翻字にあたっては杉中浩一郎先生からの的確なご指摘を受けることができた。ここに記して謝意を表したい。
                    久保卓哉(平成27年9月11日)

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