2013年5月6日月曜日

クロアチア!クロアチア!


 クロアチア    (『国文学報』第42号 1999年3月 69-73頁)

 クロアチア ! クロアチア! 

 ザグレブの空港に着いたときヨニックはひとりで別の出口に並んでいた。あれ?と思った
が私は「乗り継ぎ」の出口から空港内に出て、次のルフトハンザ航空便まで四時間待った。
四時間たって出発便の列に並んでいると、弾んで左右に揺れる歩き方をするヨニックが近づ
いてきた。彼は、乗り継ぎの四時間の間に、ザグレブ市内まで行って激しい戦闘の跡を見て
きたという。その表情は暗く沈んでいた。空港内のベンチでひたすら時間が過ぎるのを待って
いた私はヨニックの目的意識とその実行力に度肝を抜かれた。
 ヨニックはベルギーチームのコーチで二十三才。SAKEとBONSAIが好きな飲んべえだ。
そういえば彼は、クロアチア南部のスプリト空港でも長い列の後ろに並ばず、誰もいないカウ
ンターの前に立ってクロアチア航空の女性を手招きするとさっさと手続きをすませて中に入っ
ていた。旅なれたツーリストとは彼みたいな人のことをいうのだろう。それにしても四時間の
過ごし方の違いは余りにも大きい。

 クロアチアを訪れたのはヨットレース「ヨーロッパ選手権」に参加するためだった。アドリア海
に面したローマ帝政期の美しい古都スプリトに二週間ほど滞在した。そこで私は先のヨニック
と三年ぶりに再会し、また新しい友人たちと出合った。

 ZlatkoとMirandaは私の新しい友人である。クロアチア行きが決まったときからE-mailで連絡
を取り合っていた私たちは、初めて出合ってお互いの背中に腕を回して挨拶を交わしたときに
は「ようやく会えたね」という懐かしさでいっぱいだった。E-mailは不思議なものだ。人種と言語
を越えて結ばれる。
 二人に会って初めて分かったことがいろいろとあった。肥った初老の人ではなくて、やせて背
が高い三十代の青年で、丸顔で背が高いミランダはその奥さんだった。気むずかしい人ではな
くて、いつも笑顔を見せる紳士淑女で、困った表情や驚いた表情の素朴さといったらなかった。
ひと目でウマが合いそうと直感した。Zlatkoの名を「ズラトコ」と英語よみで呼んでいたが、ミラン
ダや他の人が彼をザトコと呼んでいるのを聞いてクロアチア語では「ザトコ」というのだと知った。

 私はインターネットを利用してクロアチアから日本に向けてレースの模様をレポートするために、
ノートパソコンを持参していた。できるかどうか自信はなかった。ドイツやイギリスでならできるか
もしれないが一九九五年まで内戦が続いていたクロアチアだ。しかもヨット界でまだそれを試
みた日本人がいなかった。
 ザトコとミランダに、レース事務局の電話回線を使わせてくれませんか、とおそるおそる聞いて
みた。大会が始まるとレース事務局は戦場のようにごった返すのを承知の上である。宿舎となっ
た所はいわゆるホテルではなくて学生用のホステルで、電話が引かれていなかった。難色を示す
と思っていたのにザトコはいとも簡単に「ああいいよ」と言ってくれた。しかも電話代はいらない、使
うときは、事務局のコンピュータの回線を抜いて君のコンピュータにつなげばいいという。日本とク
ロアチアで交わしたE-mailが私たちを旧知の間がらにしていた。ザトコはプロバイダの電話番号と
大会事務局のID番号、そして大切なパスワードを教えてくれた。
 私は早速ダイヤルアップ接続を設定して接続名を「クロアチア」とつけ、リターンキーを押した。する
とどうだろう、私のパソコン画面の地球儀が回り始め日本のホームページが画面に出てきた。のぞ
き込んでいた人垣からは期せずして、オオッ、と歓声があがった。
 インターネットに入りこめば、国境もシステムの違いも越えて地球上のどことでも瞬時につながる。
これはえらい世の中になったものだ。
 日本を出発して以来自分宛のE-mailをチェックしていなかった私は、大学に届いた数通のE-mailを
読んでクロアチアからその返事を送っておいた。

 大会が始まるとザトコは私が持参したデジタルビデオカメラに目を付けて、レースの模様を撮影して
画像をインターネットに載せる仕事をしてくれないかと言ってきた。彼らはテレビ向けのビデオ取材班
と新聞向けのカメラマンを手配していたが、インターネットに載せる画像をどうするか決めていなかった
らしい。かくして私は急遽大会所属のプレスに変身し、アドリア海のレース会場をプレス専用ボートで走
り回ることになった。これは日本チームに大きな力となった。私はプレスの仕事の傍ら、一方ではちゃっ
かりと海域の風のデータを集計し、それを即座に無線でコーチに伝えたからだ。日本チームの選手たち
は刻々と変化する風の傾向をタイムリーに把握することができたことになる。ヨットは風を読むことで勝
負が決まる。おかげで日本チームは、ヨーロッパ選手権史上初めて銅メダルを獲得することができた。
 
 私たちが滞在したスプリトは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている美しい古都で、英国の作家
アガサ・クリスティーは二度目のハネムーンにこの地を選び、世紀の大恋愛で世界中を驚かせた英国
国王エドワード八世とアメリカのシンプソン夫人は恋の逃避行の滞在先のひとつにこの地を選んでいる。
大会をホストしたモーナ・ヨットクラブには、オランダ、ドイツ、デンマークなどから航海してきたヨットが
もやい、デッキの上には洗濯物が干され自転車三台をしばりつけている船もあった。ヨーロッパの人々
にとっても一度は行ってみたいリゾート地なのである。九人乗りのルノーのバンをチャーターしていた私
たちはレースが終わるとよくドライブをしたが、驚いたことにモーナ・ヨットクラブのように美しいクラブハウ
スとハーバー、レストランをもつヨットクラブが至るところにあり、三十分のドライブの間に八つもあった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境である石灰岩の岩肌が露出したディナラ山地はレース海面からすぐ
近くに見えた。スプリトからわずか四十キロしか離れていない。あのサラエボまでもわずか百六十キロで
あった。今なお二百万個以上の地雷が残るボスニア・ヘルツェゴビナにドライブして行くことはできなかっ
たが、ある日その山の向こうから白い煙が雲のようにわき上がったときは、ザトコとミランダのみならずク
ロアチアのスタッフは厳しい表情で煙の様子を見あげていた。いまわしい戦闘の恐怖がもたらした彼らの
表情だと私には見えた。(ザトコは海軍の軍人であると後に知った)

 クロアチアとスロベニアが旧ユーゴースラビアからの独立を宣言したのは一九九一年六月で、その時か
らクロアチアと旧ユーゴ連邦軍との戦闘が激化した。現在広島市立大学に付属する広島平和研究所の所
長をしている明石康氏が、国連事務総長特別代表兼国連保護隊代表としてクロアチアのザグレブに着任し
たのはその三年後の一九九四年一月だった。今から考えると私にも思い当たることがある。一九九三年の
夏、北アイルランド、ベルファーストの大会に参加した私は、パーティー会場へ移動するバスの座席でスロ
ベニアチームの監督、コーチと隣り合わせた。偶然にも彼らとはディナーの時もテーブルが同じで私たちは
名刺を交換したり小さなプレゼントを交換したりした。彼らは私に美しいカラー写真で紹介された「スロベニア」
という本をくれた。図鑑のように立派な本だった。そこには、山、渓谷、海岸、植物、動物などスロベニアの
美しい自然がいっぱい紹介されていた。中を見て、こんなに美しいの?スロベニアって、というと自慢げに
うなずいて名刺の裏に自宅のFAX番号を書き加えてくれた。あのとき彼らは戦闘が続く国情の先に明る
いものが見え始めた時だったのだ。だから「ヨーロッパ選手権」という国際大会に「スロベニア」として出場
してきていたのだ。彼らはその本を十数冊も持参して各国の代表にプレゼントしていた。しかもその時す
でにスロベニア政府は四年後の九七年に「ヨーロッパ選手権」をホストする準備を整えており、そのため
の印刷物も配ってアピールしていた。彼らとはその後、トルコのイスタンブル(九四年)でもフィンランド
(九五年)でもまたクロアチアでも再会した。

 外務省の外交青書を見ると一九九五年八月四日クロアチア政府軍はクライナを攻撃し二日後にクラ
イナ全域を制圧している。ちょうどこの時私はフィンランド、オーランド島マリエハムのバルト海の船上に
いた。木造ニス塗りのバイキング船にはイタリア、スウェーデン、ポーランド、チリ、アメリカ、ニュージー
ランド、南アフリカなどの国に混じってクロアチアの三人がいて熱心に選手のセーリングを双眼鏡で追っ
ていた。この年クロアチアは初めて「世界選手権」に参加してきていた。三人とも一九五センチの大男
だった。初出場とはいえクロアチアの選手のセーリングはすばらしく彼らはレースのたびに歓声を上げ
て順位をメモしていた。デッキ上の見やすい場所には全員が移動するからそこは大混雑するが彼らは
ひときわ背が高いのにいつもベストポジションに陣取っていた。ときたま振り返って済まなさそうな表情
で入れ替わってくれたが、そのときは日本選手の順位もチェックしていて私に教えてくれた。今から考え
ればこの時の彼らもクロアチア政府軍が攻撃をしかけたというニュースに心を痛める一方で、「世界選
手権」に選手団をつれてきたという明るい使命感に燃えていた時期だったのだ。その三年後には大会
を開催するホスト国として私たちを招待してくれたのだから、彼らの力には驚く。しかももっと驚くのは単
に国際舞台に登場したのではなく、その成績のすごさである。九五年の世界選手権では銅メダル、九八
年の世界選手権(ポルトガル)でも銅メダル、そして今回のヨーロッパ選手権では堂々と金メダルを獲得
してしまった。
 これはヨットの世界での話だが、サッカーワールドカップでも日本はクロアチアにかなうわけはなかった
なあと思う、底力の差は気が遠くなるほど大きい気がする。
 年末に嬉しいメールが舞いこんできた。
Happy new year !!!!!」「Merry Christmas, Happy new year and lot of nice and fun
sailing in 1999 !!」
差出人は「Zlatko, Miranda and Sailors and crew from JK"MORNAR" Split , Croatia」だった。

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