2013年5月11日土曜日

21世紀の向かうところ



京都大学の河野昭一氏は、退官を前にして、過去四十年ほど、日本や世界中のいろいろな地域を飛び回り、様々な生物たちを相手に研究に明け暮れた経験を綴って、朝日新聞に寄せている。
「このわずか四十年の間にも、いや応なしに目に飛び込んでくるのは、世界中いたる所で引き起こされている余りにも大きな自然環境の変化である。それは正に激変と言わねばならない。」「森はあちこちで伐られ、渓流は数え切れない砂防ダムでずたずたに寸断されている。湿原や干潟は埋め立てられ、川は巨大なダムでせき止められ、河岸、海岸は護岸工事でどこもかしこもセメントづけである。」「大規模な自然の改変は、例外なく人間の生活活動の結果である。」「地球上に生きる無数の生物たちとの共生を軽視し、自然からの一方的収奪に終始し、ひたすら経済成長と生活の利便性だけを無原則的に追い求めるならは、その結果、自然との間に生じたさらに大きな亀裂によって、自らの存在をその根底から脅かされることになろう。」
河野氏のことばは日本、中国、南米などの地域性を越えて、この地球に何が起こっているかを明確に言い表している。だから人類は何をしなければならないのか。それは、干潟や湿原を埋め立てず、川を巨大なダムで堰き止めず、海岸をセメントづけにせず、森を伐らず、渓流を砂防ダムでずたずたにせず、山を平らにしてその上に人間が住むことをせず、ということを始めなければならないのである。これは、人類が自然と生物をわがもの顔に破壊した二十世紀が向かったベクトルとはまったく正反対である。
向かうベクトルが正反対になるような大きな事業は、具体的には「政」、「官」、「民」の三位が一体となって行なわねばならない。そしてその方向を示す役割をになうのが「学」であろう。「学」は人間の魔物と自然の魔物との両方に立ち向かわねばならない。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

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