2013年5月11日土曜日

木簡と砂漠


もう一つ、敦煌で発見された新資料と砂漠の情報も飛び込んできた。
 情報の発信源は「中国青年報緑網」http://www.cydgn.org)で、中国の風砂災害は、既に漢代に発生していたというものである。それによると、甘粛省敦煌にある漢代の懸泉置遺跡で発見された木簡に、風砂災害による「遺車失馬」事件とも言うべき内容が記されていたという。木簡の内容は次の通り。某官府が一人の役人を遣わして公務を執行させるために、一台の車と一頭の馬を与えて出張させた所、その男は途中で戻って来た。上部に報告して言うには、敦煌にさしかかった所、突然猛烈な風砂に襲われて、車が強風と砂によって破壊され、馬は驚いて何処にか走り去り、自らも傷を負い、やむなく徒歩で戻ってきた、と。木簡にはこのように記録されていたという。この漢簡を発見した甘粛省文物考古研究所の何双全は論評を発表して、このような風砂による自然災害は『漢書』などの歴史文献にも記載がない、近年風砂気象が国内外を悩ませているが、これはここ数年の間に出現したものではなく、遠く漢代において既に発生していたことが分かった、その原因を今のところまだ明らかにすることは出来ないが、漢簡の記録は今後の気象と地理を研究する上で、またとない貴重な資料となる、と語ったという。砂漠の情報は、「人民日報」海外版二〇〇二年十月十四日第十一版が、中国では砂漠面積が依然として拡大し続けていると伝えていた。それによると、中国の砂漠は全土の二七.八%を占め、一九九四年から一九九九年の五年間だけで五.二万平方㌔㍍増大した、という。これだと毎年一万平方㌔㍍ずつ増えて来た計算になり、なんと岐阜県の大きさの砂漠が、毎年一つずつ誕生していることになるのだから驚く。記事は、国家林業局副局長・祝列克の次のような談話を載せている。「砂漠は、砂漠化を予防することが第一で、その次に現在の砂漠を管理すること大事です。方法としては、砂を封じ込める、牧畜を禁止する、樹木の伐採を禁止する、開墾を禁止する、水利用の無駄を除く、生態系を移動させる、現有林木を保護する、そして何よりも『保護を推し進めながら、一方では依然として破壊が行われている』という現状を根絶しなければなりません。そして同時に大事なのは、農民、牧畜民の利益を守ることで、彼らの生活を保障してこそ、この事業に生命が吹き込まれます。」
 二〇〇二年十月十七日に北京で開かれた全世界環境基金(GEF)の大会で、中国国家環境保護局局長の解振華は「中国は環境大国であり、中国の環境問題が解決すれば、全世界の環境改善に貢献する」と発言したようだ(「中国青年報」十月十七日張可佳記事)。この言葉の中には、現中国の環境問題に対する国家の決意と覚悟が表れている。これは単に、挨拶上の社交辞令ではないように私には思える。中国の環境保護の歴史を見てきた者として、この中国の決意と覚悟を私は信頼し期待する。中国は、風砂、洪水、旱魃という環境悪化の現状を抱えて、その余りの惨状に天を仰ぎながらも、一つ一つを見据えて、ゆっくりと着実に環境問題を解決して行くに違いない。なぜなら、中国には世界のどの国も有していない環境保護の歴史があるからである。私はそれを信じる。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

八百里洞庭湖



 地球科学の研究機関に(財)リモート・センシング技術センターがある。リモート・センシング(remote sensing)とは遠隔探査という意味で、地球観測衛星から送られるデータを受信・処理して、地球の資源、現象を分析することを業務としている。そこの研究者田中總太郎氏からemailが飛び込んだのは、二〇〇二年九月三日の事であった。洞庭湖の衛星写真を分析すると、湖水面積が過度に小さいことが判明した。長江に洪水が発生する原因は、森林伐採によるという通説の他に、洞庭湖の縮小による湖水面積の減少に原因があると考えられる。洞庭湖が何故かくも縮小したのか、その歴史的変遷を調査すべく文献を探したところ、貴方の翻訳に辿り着いた。ついては引用したいので同意を求める、というものであった。
 後に送られてきた田中總太郎氏の「洞庭湖の四季」と題する報告によると、衛星画像から計算した洞庭湖本来の最大湖水面積に比べて、二〇〇二年八月三十一日の洞庭湖の湖水面積は洪水後四日目であるにもかかわらず、五分の一しかない。一八二五年の記録と比べても三分の一以下に減少している。洞庭湖の洪水調整能力が痩せ衰えたことが、長江の洪水の主原因となっている。洞庭湖の湖面が減少したのは、堤防を築いて干拓し、耕地と宅地を確保して来たためである、という主旨の考察が、歴代の瀟湘八景図や水滸伝の文化資料にも言及して、分かり易く展開されていた。
 本書には、洞庭湖の縮小、干拓による湖沼の消滅、水源断絶による湖沼の消滅、土砂堆積による湖沼の消滅、の小節目があって、湖沼の変遷の歴史が述べられて意いる。その拙訳試行版が田中總太郎氏の目に留まったようであった。
 その後秋になって、軒下や植え込みの枝に巣を張る蜘蛛のごとくに身を潜めて網を張っていると、洞庭湖に関する情報が引っかかって来た。それは、豊かな水源を誇っていた湖北省に水不足の懸念有りという、耳を疑うばかりの情報であった。
洞庭湖のある湖北省は「千湖之省」と呼ばれる。湖北省の人びとはその名を誇りとし、「水に憂い無し」と壮語して来た。だが今や、水に憂い有り。何と信じられないことに、水不足という災禍を抱えているという。新華社発二〇〇二年十月十七日の報道によると、工業廃水と生活汚水による水質汚染に加えて、一九五〇年代に一千五十二あった湖沼が現在では僅か八十三に減って、「千湖之省」どころか「百湖之省」とも呼べなくなった。省都武漢に至っては毎年二つの湖沼が消滅し、全国では毎年二十の天然湖が消滅している。原因は大規模な干拓と、地表水の断絶にあり、それによって水面が急激に縮減して大河への供水貯水能力が減少し、洪水災害が増大している。古来「八百里洞庭」と称された洞庭湖は、今やその十分の四しか残っていない。と、このように伝える情報が引っかかって来たのである。この新華社が伝える数字は、田中總太郎氏が衛生写真によって分析した数値とぴったりと一致していた。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

国土交通省への憤り



本書の中で袁清林は、中国の水資源の涸渇化の歴史をふり返って、森林破壊がその元凶であると明言し、全力をあげて水源涵養林を回復させるべきだと主張している。二十世紀を石油をめぐる戦争の時代だとすれば、二十一世紀は水をめぐる戦争の時代だといわれているが、日本では相変わらず前世紀的なダム建設や、干潟埋め立てや、川の水を一気に流す事業を進めて、いたる所にコンクリートをぶちこんでいる。
私が住む町でも、このわずか五年の間に川の九十%がコンクリートで覆われてしまった。五年前までは「ここはきれいな川です 建設省」と書かれたトタン板の立て札が立っていた場所は、区役所が押し進める「環境整備」のもと、国土交通省への気兼ねも、自然環境への気兼ねも、きれいな水への気兼ねも、もちろん私の強硬な抗議への気兼ねも何もなく、水生植物と水生昆虫もろとも、すべての生態系を根こそぎ掘り返して、固いコンクリートをぶちこんでしまった。その結果、水はどこまで行っても浄化されることなく汚れたまま流れ下るだけで、蛍やヤゴの水生昆虫が死滅したのはもちろん、雑草すら生える所がなくなった。いま川にはゴミがたまり、岩にぶつかる水の音も消えた。
環境整備は、破壊したもの以上のものをもたらすことはありえない。
「私たちに至福をもたらすといわれたダムも、曲がりくねらない川も、埋め立てだらけの海岸も、がっくり来るような風景を増やしただけで、無用の長物となろうとしている。犠牲になったのは、鳥や魚だけじゃないと、だれもが気づき始めた。」と歌手の加藤登紀子さんが新聞に書いていた。たしかに「がっくり来るような風景」がいたるところで見られるようになった。しかも「だれもが気づき始めた」のに、まだ「がっくり来るような風景」をつぎからつぎへと造り出すやからがいる。そのやからとは、役所だ。
諫早湾の干拓、福山鞆の浦の架橋、沖縄泡瀬干潟の埋め立て、熊本川辺川ダムの建設。経済優先の水利事業が、そこのけそこのけと、雀の子を追い散らす。
中国の古代以来行われた水利事業の中で弊害ばかりが大きかったのは、湖を囲いこんで田畑を作り、海を埋め立てて田畑を作る干拓事業であった。中国では、干拓は生態の均衡を崩し、その悪影響が経済的に損失を与え、その損失は何ものによっても埋め合わせることができなかった。その失敗をくり返さないために、今中国では専門部会を組織し、国家の資金を注ぎ、市民の活動組織を作り、内外から人材を集めて環境問題に取り組んでいる。その速度の遅速は問うまい。中国は中国のやり方でかならずやり遂げるだろうから。日本のように、「だれもが気づき始めた」のに、後退を含む方向の転換をしたがらない役所ではないだろうから。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

呼和浩特の高燕茜女史


中国環境報 高燕茜女史

中国の全人代常務委員会委員長(二〇〇二年)で前首相の李鵬が、副首相であった時の一九八四年の一月七日「第二次全国環境保護会議」の閉会式で行った講話の中で、「今年の元旦に、《中国環境報》が正式に刊行されたが、これは環境保護の政策を宣伝し、環境保護の活動を探究し、環境保護の知識を普及させる専門新聞で、これを成功させなければならない。」といった。この時はまだインターネットは現実のものではなく、その言葉すら存在しなかったが、現在の中国では環境保護の専門紙のみならず、「中国環境保護網」という環境保護の専門サイトが政府によって開かれているhttp://www.zhb.gov.cn/
その《中国環境報》の内蒙古呼和浩特(フホホト)市の記者で、『呼和浩特環境』誌の主編者である高燕茜女史が広島を訪れ、昼食を共にしながらいろいろと話をうかがった。「中国環境保護網」というサイトもその時教わったのだが、持参した発行物の中に《中国環境報》に女史が発表した署名入りの記事「西部大開発 呼和浩特市はどうするか」があり、その中で氏が呼和浩特市の自然環境を、「水土流失は三十四%、森林覆蓋率はわずか一七.四八%。風による浸食と砂漠化と水土流失が並存して、黄河に流れ込む泥砂の量は深刻。生態環境が脆弱なためにさまざまな自然災害が頻繁に起こっている。」「丘陵地帯に防風防砂の森林を造って水源を育て、山の斜面の耕作地を林と草の森にもどして、農地と森林のネットワークを作るべきだ。」と提言した部分が注目された。女史が持参した発行物には《中国環境報》のほかに、週刊《地球村》、《呼和浩特環境》があり、これらは大気汚染、水資源の問題から家庭のゴミ、騒音問題まであらゆる環境問題を取り扱う環境保護の専門誌で、私は会談の間中、女史の環境保護への熱い姿勢に圧倒された。ニコンの一眼レフを片手に、次から次へとシャッターを押してヒロシマの姿を写し取って帰った女史からは、後に『高燕茜環境新聞選集 藍天緑地碧水情』内蒙古大学出版社(全四九一頁)が送られてきた。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

上海学術書店の厳鍾麟



袁清林に関する事は、南京でも北京でもなく、上海で情報を得ることができた。それを可能にしてくれたのは、学術書店の厳鐘麟社長だった。東京の上海学術書店の辻社長に依頼して上海出張所を訪ねたいと伝えていた私は、南京に到着して間もなくの日に、上海の厳氏から訪問を歓迎するとの電話を受けていた。帰国の二日前になって、上海郊外西渡に移転したばかりの学術書店を訪ねた。
新開発区の広々とした畑が残る住宅群の中で店を見つけるのは難しいと判断した厳氏は、西渡の交差点まで出迎えてくれた。お互いに顔を知らないから、厳氏は、片手に雑誌を持って自転車の側に立つ、それが私だと言った。往来する人や車が少ない西渡の交差点でその姿を見分けるのは容易だった。厳氏は大柄で声が低くて太い、竹林の七賢の嵆康のような人に見えた。書店は、真新しいコンクリートの道路に平行して続く白い箱形建物の一階にあった。道路側すべてを総ガラス張りにした店舗の上には、筆写体の文字を金の刻印で浮き彫りにした「学術書店」と書かれた看板が掲げられていた。
店内には搬入したばかりの書籍が、或いは書棚に並べられ、或いは床に積み上げられ、入り口脇にはやや小型のポリプロピレン製の箱に入った書籍がうずたかく積み上げられていた。その箱に見覚えがあったので、上海から私宛に送られてくる書籍の梱包箱と同じですね、というと、その通り、ここで梱包して日本に発送するのだという。店内奥にパソコン機器が並んだ部屋があり、これなくして仕事が成り立たないのだ、とその仕組みを教えてくれた。
日本、中国、台湾など増え続ける顧客リストには、職業、住所はもちろん、その顧客が過去に注文した書籍のすべてが入力されていた。だから顧客の思い違いで注文がダブったとしても、顧客は二重買いの無駄をしないで済むという。その独自のプログラムを作り、資料を入力して管理するのは、情報処理の専門学校を卒業した二十一歳の銭俊氏だった。リストを見ると私の顧客番号は十五で、古くからの客の一人だということが分かった。画面の中に碩学島田虔次氏の名を見たのは偶然だったが、後でその十一日前に逝去されたばかりであったことを知り、氏を尊敬していた私には不思議な思いのする出来事であった。
袁清林に関する資料収集がうまくいかないことを伝えると、相手の目をしっかりと見て話す厳社長は更に私の目をのぞき込むように見て、今ここで分かるかも知れない、調べてみようといった。厳氏は人名、書名、出版社名、などを収録した分厚い本を繰り始め、同時に若い銭氏はパソコンの前に座って、データベースを検索し始めた。二人は出てきた手がかりを言葉で投げ合いながら、次から次へと資料をたどり、「むむ、近づいたぞ」「ややっ、無い」「おお、近いぞ、出るぞ出るぞ」、と墳墓の発掘さながらに調べてくれた。その結果、銭氏が取り出した北京図書館作成の膨大なデータベースのCD-ROMと、その情報をもとに厳氏が取り出した更に分厚い本が決め手となって、著書リストや所属単位はもちろん、住所と電話番号まで調べがついた。袁清林は歴史学者ではなく、科技家(科学技術家)であった。
家菜ジアツァイで簡単だけれどどうぞ、と野菜、魚、鶏肉を炒めたボリュームたっぷりの昼食とブランデーをご馳走になった。丸椅子を集めてテーブルを囲む七人のお箸が、見る見るうちにお皿を空にしていく昼食は格別に美味しかった。
懸案であった袁清林に関する資料を、上海の学術書店で調べることができたのは望外の喜びであった。この訳注を始めて以来五回目にして漸く、その資料を紹介することができる。上海の学術書店と東京の上海学術書店に感謝の意を表したい。
袁清林。一九四四年、内蒙古杭錦旗生まれ。本籍は、陝西省府谷県。《中国農村科技》雑誌社社長、主編。中国農村致富技術函授大学副校長。中国科学技術普及作家協会会員。
著書。『人類童年的牧歌 我們祖先的環境保護故事』袁清林編著―修訂版―北京、中国環境科学出版社、一九九七年、二〇六頁、青少年環境知識叢書。『尋找永遠的綠色 環境保護展望』袁清林,杜秀英編著―石家荘、河北少年児童出版社等、一九九六年、二一五頁、望遠鏡叢書。『来自環境夏令営的報告』袁清林編著―北京、知識出版社、一九九六年、七九頁、高科技啓蒙文庫。『人比黄花痩』袁清林著―北京、中国環境科学出版社、一九九三年、三二四頁。『図説少年新科技知識叢書』王洪,袁清林主編、張志明等絵図、生物農業―昆明、雲南少年児童出版社、一九九三年、一六〇頁。『蔬菜果樹食用菌栽培技術』袁清林等主編、《農戸実用種養新技術叢書》編写組編―北京、中国環境科学出版社、一九九二年、二九一頁、農戸実用種養新技術叢書。『家禽及皮毛動物飼養』袁清林主編、《農戸実用種養新技術叢書》編写組編―北京、中国環境科学出版社、一九九二年、二二九頁、農戸実用種養新技術叢書。『家禽飼養』袁清林等主編、《農戸実用種養新技術叢書》編写組編―北京、中国環境科学出版社、一九九二年、二六九頁、農戸実用種養新技術叢書。『大地在呼喚』袁清林編著―太原、希望出版社、一九九二年、九八頁、愛我自然叢書/朱志堯主編。『新編十万个為什麼』王国忠、鄭延慧主編、袁清林分主編、環境保護巻―南寧、広西科学技術出版社、一九九一年、二一三頁、少年科学文庫/王梓坤等主編、環境保護巻。『中国環境保護史話』袁清林編著―北京、中国環境科学出版社、一九九〇年、二七二頁。『科普学引論』袁清林著―北京、学術期刊出版社、一九八九、三一二頁。『氷山之角』袁清林,夏渝著―北京、中国環境科学出版社、一九八七年、三九〇頁。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

袁清林探し



 二〇〇〇年の春南京大学を訪れたのは(二月十八日~四月三日)、古典文献研究所所長の周勛初教授の指導を得るためと、六朝古蹟の調査をするためであったが、私にはもう一つ『中国環境保護史話』の著者袁清林に関する資料を集めて帰る目的があった。
 二月の南京は寒さが厳しく、毛糸の帽子、マフラー、手袋、膝掛け、座布団などの、冷気を遮断する物無くして過ごすことができなかったが、不思議なことにその生活に慣れる頃には、南京大学の研究室や資料室の使い方が分かるようになり、多くの先生方と顔見知りになることができた。
 歴史系を訪れた私は居合わせた若き先生二人に袁清林のことを口頭で聞いた。だが二人とも知らないという。実はこの返事はある程度予想していた。なぜなら、昨年一年間北京大学に滞在した学友に同じことを依頼しておいたところ、北京大学歴史系の先生は知らなかったという返事をもらっていて、袁清林は歴史学の学者ではないのかも知れないと推測していたからだ。南京大学でも知らないということはやはり歴史学の学者ではない。私の困惑した表情を見て二人は、出版社に直接問い合わせてみてはどうか、出版社には著者の資料があるはずだという。
 電話局の番号案内で北京の中国環境科学出版社の電話とFAXの番号を聞きだした私は、早速電話をかけた。しかし、南京から北京への長距離電話は、応対した若い女性の、出版社らしからぬあっけらかんとした対応と、電話カードの残量がみるみる減る度数と相まって、口頭で聞き出すことに限界を感じ、FAXに用件を書いて送ることにした。念のため、数日の間隔を置いて二度送ったが、結局出版社からの返事はなかった。
中国で生活していると、返事がないことやその他の不具合が起こってもいちいち気にならなくなる。これが中国なのだと、どっぷりと中国の水につかりながらぷかぷかと流れていく。流れを横切って岸に上がろうとしても岸は遙か彼方、岸に着く前に力尽きてしまう。ましてや流れに逆らって泳ぐなんて事は、考えるだに恐ろしい。これは歴史的に見て、中国の民が体得してきたことと同じものなのだろうな、と私は考えた。だから中国には万能の神、龍がいるのだ。
(中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

21世紀の向かうところ



京都大学の河野昭一氏は、退官を前にして、過去四十年ほど、日本や世界中のいろいろな地域を飛び回り、様々な生物たちを相手に研究に明け暮れた経験を綴って、朝日新聞に寄せている。
「このわずか四十年の間にも、いや応なしに目に飛び込んでくるのは、世界中いたる所で引き起こされている余りにも大きな自然環境の変化である。それは正に激変と言わねばならない。」「森はあちこちで伐られ、渓流は数え切れない砂防ダムでずたずたに寸断されている。湿原や干潟は埋め立てられ、川は巨大なダムでせき止められ、河岸、海岸は護岸工事でどこもかしこもセメントづけである。」「大規模な自然の改変は、例外なく人間の生活活動の結果である。」「地球上に生きる無数の生物たちとの共生を軽視し、自然からの一方的収奪に終始し、ひたすら経済成長と生活の利便性だけを無原則的に追い求めるならは、その結果、自然との間に生じたさらに大きな亀裂によって、自らの存在をその根底から脅かされることになろう。」
河野氏のことばは日本、中国、南米などの地域性を越えて、この地球に何が起こっているかを明確に言い表している。だから人類は何をしなければならないのか。それは、干潟や湿原を埋め立てず、川を巨大なダムで堰き止めず、海岸をセメントづけにせず、森を伐らず、渓流を砂防ダムでずたずたにせず、山を平らにしてその上に人間が住むことをせず、ということを始めなければならないのである。これは、人類が自然と生物をわがもの顔に破壊した二十世紀が向かったベクトルとはまったく正反対である。
向かうベクトルが正反対になるような大きな事業は、具体的には「政」、「官」、「民」の三位が一体となって行なわねばならない。そしてその方向を示す役割をになうのが「学」であろう。「学」は人間の魔物と自然の魔物との両方に立ち向かわねばならない。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

砂漠を森林に



一九九九年を前にしたある日、私はラジオのニュースを聞いて自分の耳を疑った。ラジオは、中国政府が荒れた自然環境を回復させるために、今後五十年にわたって木を植え、草の種をまいて「美しい山河」を取り戻すことを決定したと伝えていた。鼓動が速くなった。
一九九八年の夏である。中国では四十四年ぶりの大洪水が起こった。氾濫したのは長江と松花江で、中部の湖南省、湖北省、江西省と東北の黒竜江省、吉林省、内モンゴルが水に襲われ、二千人以上の死者が出た。家を失った人は黒竜江省だけでも二百十六万人、全国では千七百万戸の家屋が損壊し、水害の影響を受けた人は、日本の人口の二倍にあたる二億四千万人にのぼった。
長江流域では、この三十年の間に森林面積が半減し、流域に残る森林はわずか十%になった。そのために土壌は、日本の国土二つ分の面積が流出して、三十年前の二倍に増え、なお毎年二十四億㌧が流れ出している。長江の流れは黄色く濁り、もはや「第二の黄河」になった。このままのペースで土壌流失が続けば、三百年後には長江の全域がはげ山になる。そうなると貯水能力がゼロになった長江は少しの雨でも水と土砂が流れ出し、巨大な三峡ダムは何の意味も持たなくなる。
これらの原因は、森林伐採と土地開発にあけくれた結果であることを中国政府は知っている。だから、長江上流に位置する四川省政府は一九九八年九月一日から省西部の原生林伐採をやめた。これでパンダも生きのびることができるだろう。
中国政府の発表によると、中国の自然破壊の状況は、表土流出が国土の三十八%、砂漠化二十七%、草原荒廃十四%で、破壊されずに残った自然はわずか二十一%にすぎない。自然環境を回復させる五十年計画は三段階で、まず二〇一〇年までに長江、黄河の上・中流域を対象に、人為的な要因による表土流出をストップさせ、すでに流出した六十万平方㌔㍍と砂漠化した二十二万平方㌔㍍を回復させ、新たに森林を三十九万平方㌔㍍つくる。二〇三〇年までには、保全可能な土壌流出地域の六割以上と四十万平方㌔㍍の砂漠化した荒土を回復させ、新たに森林を四十六万平方㌔㍍つくる。最終の二〇五〇年にはすべてのプロジェクトを終え、植林可能な土地はすべて緑化され、荒れた草原は完全に回復された状態にするという。
これは二十一世紀に向けて発したおそらくは世界初の国家プロジェクトである。しかも五十年計画で自然を回復させるという宣言は、核廃絶や対人地雷全面禁止条約を批准し遵守すると宣言するよりも価値がある。なぜなら後者は国家間の利害や都合で反故にされる可能性があるが、前者の五十年計画を中国は必ず実行するだろう、中国は国家の方針として打ち出したことは万難を排して実行する国だからだ。
本書の著者袁清林が自然の歴史的変遷を明らかにし、その原因を分析し、環境保護のために人類が何をなさねばならないかを提言している内容は正しい。はからずも中国政府の今回の決定が、その提言が間違っていないことを証明する結果になった。
本書第七章「有史期の気候の変遷と種の絶滅」と第八章「環境変遷の歴史と原因分析」のなかでの圧巻は、人口増加と環境悪化の関係について言及し、四十二年間で人口が九倍に増える結果をもたらした清・康煕帝の政策に対して厳しく批判していることである。康煕帝は「康煕字典」「全唐詩」「古今図書集成」を編纂させた文徳政治と、ロシアとネルチンスク条約を締結した武徳政治で評価が高いが、一七一二年以後に増加した戸口に対しては永久に租税を徴収しない、と一見改革にみえる政策が、食糧不足とそれを補うための開発開墾をもたらし、清朝以後現在に至るまで、環境悪化を増幅させたというものである。一読の価値がある。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

開発と自然破壊


九州有明海の諫早湾が、国の干拓事業のために長大な潮止め堤防で閉め切られたのは、一九九七年四月のことだった。農地造成と洪水、高潮防止という人為的計画が、万古以来の干潟と生息する生物を消滅させた。わが国ではこのような干拓や、河口堰、ダム建設、河川改修など、国土開発の計画が依然として存在し、国土交通省は開発と安全という名のもと、頑なに自然破壊をくり返している。朝日新聞のコラム「窓 論説委員室から」は「川殺しの世紀」と題して、「二十世紀は、川を殺した世紀だといわれる。ほとんどの国で 巨大ダムが造られ、川は堤防で囲まれた。水害を防ぎ、潅漑、発電、工場、水道に水を利用するためだ。そうした近代的な河川政策は、人びとに物質的な豊かさをもたらした半面、川漁や水運を疲弊させ、魚釣りや川遊びの場をなくした。生態系も破壊された。河川の持つ多様な価値が犠牲になったのだ。それだけではない。近代河川工法は渇水や水害をむしろ深刻にしている。」と、それは一国内にとどまるどころか地球的規模であることを指摘している。
 本書の著者袁清林は、『史記』平準書、『水経注』、宋梅尭臣の詩等の歴史資料を引用しながら、タクラマカン砂漠や内蒙古の砂漠化が進んだのは、「開墾」と「森林破壊」と「戦争」と「水利建設」という全くの人為がその要因であると指摘している。また、長江流域の洞庭湖が年々縮小しているのも、黄河が氾濫をくり返してきたのも、黄河下流の湖沼が消滅したのも、全ては人間のせいであると指摘している。「森林破壊」による「土砂の堆積」、「干拓」と「水利事業」による「水系の変化」、それは人間のせいでなくて何であろう。国家の政策が学問にも強く影響する中国にあって、国策をも、学問をも、そして思想をも、根底から問い直す著者の主張に驚く。そしてその主張は説得力に富む。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

地上で最も不要なもの



 長江の三峡ダム建設が現実のものとなった。三峡の険しさは、つまりは三峡の美しさということである。自然に人を寄せ付けない険しさがあればそこには美しい自然が残っているということである。

 だが三峡に史上最悪の発明品であるブルドーザーが入ることになった。近代機器は山をわずか三か月で平らにしてしまう。今や地上で最も不要なものは、核兵器ではなくて、ブルドーザーである。

 核兵器には世界中が目を光らせ、使用を抑止する。だが、ブルドーザーの使用を抑止するものは何もない。地上の至る所に運ばれて、木をなぎ倒し、山を削り、川を掘り返している。

 人間が生活に便利なようにと自然破壊を繰り返す時代は、もうとっくに終わったはずなのだ。九十歳になって山を移そうとした北山の愚公のことを、今こそ思い出すべきなのだ。愚公の意味たるや深くて重い。
 (『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

イオニアの空


イオニアの空

ストックホルムで「人類環境宣言」が採択された一九七二年以来、人類は環境問題という新しい課題が存在することに気がついた。その歴史はたかだか二十数年に過ぎない。しかし、古代の中国ではすでに自然を環境問題としてとらえ、環境保護のための専門の官職をもうけていた。禹の治水事業がそれであり、舜が任命した伯益の虞官がそれである。だがその後の環境破壊はすさまじかった。中国の環境破壊の歴史は、中国の歴史そのものでもあった。
敦煌の莫高窟を訪れたものは、その壁画の美しさと厖大な量の芸術に驚く。その驚きが大きければ大きいほど、莫高窟をとりまく荒涼とした砂漠とのアンバランスを不思議に思い、首をかしげる。なぜこんな砂漠にこのような遺跡が。それは時として、世界中を驚かせた秦の兵馬俑の発見や馬王堆の侯夫人のミイラの発見と同様、悠久な歴史を持つ中国ではさもありなんと、その神秘性に帰してあいまいに納得して終わる。しかし、かつて莫高窟の周囲は砂漠ではなかった。あれだけの壁画と彫刻が水もない所で制作されたはずはない。
  本書にはこのような、芸術と文学、法制と政治との歴史的なあいまいさを埋める指摘がいたるところにある。山水詩人として名高い謝霊運は、自然の美しさを描写する詩をたくさん残したが、山水を「環境」ととらえそれを「保護」するという概念があったのだろうか。従者数百人を引き連れて、道を妨げる木を伐り払わせ、池を埋めたのは謝霊運だった。厩が焼けたとき、人間に怪我がなかったかとたずねただけで馬のことをたずねなかった孔子は、動植物に対して慈しむ心を持たない非情な人間にみえる。しかし、孔子がそうとは思えない。論語のことばは、唐・陸徳明の『論語音義』に一説を紹介するように、孔子は馬のことをもたずねたと読むのではないか。
 このように自然環境という視点から中国の古典を再検討してみることは、決して無駄なことではない。私がこの本を翻訳しようと思い立ったゆえんである。
十九世紀のドイツの哲学者ヘーゲルは、「自然については過大評価も過小評価も禁物である」といった(『歴史哲学講義』岩波文庫)。ある国の歴史をとらえる上で、その土地に生まれた民族の特徴や性格と密接に関連した自然的特徴を、過大評価してもいけないし過小評価してもいけないというのである。美しい江南の自然が杜牧の詩の優美さをつくりあげる大きな力となったのは確かだが、それだけでは杜牧はつくり出せない、それがあれば必ず杜牧が出てくるわけでもないとヘーゲルはいいたいのだ。だが、おだやかなイオニアの空がホメロスの詩をうみ出したのは確かなのである。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)

2013年5月6日月曜日

もものえだ せんせいきたど 白浜の言葉



初めて大阪に出たときは敬語でえらい目にあった。
中学二年生のときだった。昼の休憩時間が終わって、もうすぐ五時間目が始まるというときだ。
遊びの余韻を残したまま、まだ教室に入っていなかったわたしは、授業にくる先生の姿を見つけて「せんせいきたどー」としらせて、走り込んだ。

さて、その授業が済んでからである。「起立、礼、着席」が済むと、国語の女教師は教卓までわたしを呼んで、放課後職員室にいらっしゃい、といった。

 掃除が終わって職員室に行くと、先生は机に向かっていたが、背中が、待っていたよといっているのがわかった。
後ろに立ったわたしの方を向くと
 「どうして呼ばれたか分かりますか」
 「 …… 」
 「よく考えなさい」
 「 …… 」
 「分かりませんか」
 「 …… 」
たたみかけるように問いつめた。

 わたしは返事のしようがなかった。まるで思いあたらなかったからだ。
すると先生は「今日廊下でわたしを見て、久保くんは何といいましたか」といった。
わたしの声におどろいてクラスのみんなが席にもどったので、わたしは自分の言葉をよく覚えていた。
 「せんせいきたどー、と言いました」

 それが問題であった。先生は、
 「先生のことを『きたどー』とは何事ですか」
と、目をつりあげた。先生にむかっては敬語をつかって、
 「いらっしゃった」
とか
 「きはった」
といわなければならないとわたしを叱った。

 これはわたしにとって青天の霹靂だった。ことば遣いが原因で職員室に呼ばれようとは思いもよらなかった。

そもそも、白浜、田辺の紀南語は、敬語の使い方が単相で、目上に対しても、
 「いかんか」(行きませんか)
 「いいやったで」(言っておられたよ)
 「そやな先生」(そうですよね先生)
 「これなんてかいたあんな」(これは何と書いているのですか)
という。
目下や同輩に対しても同じ表現をし、そこには敬語がはさまれていない。
せいぜい「食べよし」「見ときよし」の「よし」をつけて、相手に行動を丁寧にうながすぐらいである。この「よし」でさえ尊敬語ではない。
だからわたしの「先生きたどー」は立派な「先生きはったでえ」でもあるのだ。

 先日も夕暮れ時江津良の浜を歩いて貝をひろっていると、三歳くらいの男の子が近寄ってきて
 「なにしやんな」
といった。
そのことばを聞いてすぐに
 「お、きみ、白浜の子やな。おいやん、貝拾いやんね」
と受け答えた。
「なにしやんな」は、何をしているのだ、ということであっても、何をしているのですか、何をしておられるのですか、という丁寧さや敬意をも含んでいる。これが白浜の言葉なのである。

『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

もものえだ そやにい 古座の言葉



  

 
 熊野の古座は江戸の昔から捕鯨と材木でさかえた。
 その古座には、目上の人に向かって使う言葉と、友達や同年配のものに向かって使う言葉と、年下のものに使う言葉の三通りがある。古座の人々は昔からこの使い分けを厳しく躾けられてきた。

 たとえば、相手に「おまえ、あなた」と呼びかける時、目上の人には「おまん」と言い、同年配には「おまえ」といい、年下には「われ」という。
自分のことを「わたし、ぼく」と言う時には、目上の人の前では「あて」といい、同年配の前では「わし」といい、年下の前では「おら」と自分のことをいう。
また、「そうですね」と言うように、軽く詠嘆したり念を押す気持を表すときは、目上の人には「そやにぃ」といい、同年配には「そやのぉ」といい、年下には「そやなぁ」という。
自分の意志をこめて「そんなことをしてはいけないよ」と念を押す時に、目上の人には「あかんじぃ」といい、同年配には「あかんなぁ」といい、年下には「あかんどぉ」という。
「しなさい」と、相手を励ましつつも念を押すように相手の同意を求め、自分の願望もこめていうときは、目上の人には「しやんしよ」といい、同年配と年下には「せえよ」という。

 かくも厳密に言葉の使い分けをする古座には、人と人との長くて深い結びつきがあり、集落のこみ入った関係があり、何十もの世代が培ってきた文化があるといえよう。それが厳密な言葉の使い分けを生み出してきたのではないか。
 かといって、古くて因習的なうっとうしい土地というわけではない。古座では大正時代からすでに、後ずさりすることを「ごすたん」といい、じゃんけんぽんをするときは、じゃんけんといわずに「わんすりー」といっていた。
「ごすたん」は船の後進を意味する「go astern」ゴーアスターンという英語で、「わんすりー」も「one two three」ワンツースリーの英語を略したもの。古座の子どもたちは習慣的に英語のかけ声でじゃんけんをしていたことになる。

『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

もものえだ しる 広島弁


 母は下品な言葉をつかうことをきらった。
「はし(箸)」というと「おはし」といいなさい、と言い直させられた。「茶わん」というと「お茶わん」といいなさい、とすぐに指摘がとんできた。
 「しり(尻)」はもっとも忌むべき言葉だった。「おしり」ならいいかというと、それもだめだった。その言葉そのものが、普段口にだしていうべき言葉ではなかった。

 広島に住むようになって、どうしてもなじめない言葉があった。
 千田町の校門を出ると何軒かの大衆食堂があってよく通ったものだが、ご飯の中(ちゅう)と味噌汁を注文すると、店員は奥に向かって「めしちゅう一丁、しる一丁」とさけぶのが普通だった。
 この「めし」「しる」という言い方が下品な感じがしてしかたがなかった。母なら「ごはん」「おつけ」といわなければ許してもらえないからだ。
 とくに「しる」という言い方は不淨な感じがした。物からしみ出る液体で、汚濁して非衛生的なものが「しる」だったからだ。
 だから「みそしる」でもいけない。わが家では「おつけ」か「おつゆ」だけが許される言葉だった。
またそこの食堂では、たまに箸立てに箸がないことがあって「おはしください」というと、店員は奥から持ってきて、はい「はし」とわたしに差し出したものだ。
 つくづく、この地は高貴や典雅とは無縁の文化にあるのだなと思った。

『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

もものえだ たいぎい 広島弁


 ことばは思わぬ結果を生むことが多い。五歳まで田辺市八幡町で育ち、小学校は白浜、中学、高校を大阪、大学からは広島で生活したわたしは、行く先々でことばというものを強く感じた。

これは最近の話だが、「たいぎいけえ、しんさんな」という近所の老人のことばを、「しんどいから、しなさんな」と文字通りに受け取り、えらい目にあった。

 今や全国の里山に竹林がはびこり、在来の雑木林を死滅させているが、わたしの住居の裏山も例外ではなく、この十年の間にすっかり竹林に変貌した。竹の根は土中の浅い所をはうため、大雨が降ると山は土砂崩れの危険が増す。

だからわたしは竹の拡大を阻止すべく、筍が出るころ山に入っては、二メートルほどに伸びた筍をけっ飛ばしていた。そんなある日、先ほどのことばを聞いたのだ。
「わざわざ山に入って汗をかくと疲れるだけだから、そんなことはおやめなさい」わたしはそう受けとった。

 だが、そうではなかった。
「たいぎい」には、疲れてしんどいという意味のほかに、地元の古老の思わくを刺激して、面倒なことが起こり、もつれた糸がほどけないような深刻なことになる、という意味がこめられていた。
そうなると、散歩するにも道順を変えなければならず、地域の集いにも出られなくなる。それでもやるのか、という意味だった。

 結局、後日それが現実となり、わたしは地元の古老二人に頭をさげてまわった。
同じ山で筍をとっていた古老たちが、数年前から反感をもってわたしを見ていたと知ったからだ。それは「たいぎい」ことが起こる寸前だった。
ことばは思わぬ結果を生むことが多い。五歳まで田辺市八幡町で育ち、小学校は白浜、中学、高校を大阪、大学からは広島で生活したわたしは、行く先々でことばというものを強く感じた。

これは最近の話だが、「たいぎいけえ、しんさんな」という近所の老人のことばを、「しんどいから、しなさんな」と文字通りに受け取り、えらい目にあった。

 今や全国の里山に竹林がはびこり、在来の雑木林を死滅させているが、わたしの住居の裏山も例外ではなく、この十年の間にすっかり竹林に変貌した。竹の根は土中の浅い所をはうため、大雨が降ると山は土砂崩れの危険が増す。

だからわたしは竹の拡大を阻止すべく、筍が出るころ山に入っては、二メートルほどに伸びた筍をけっ飛ばしていた。そんなある日、先ほどのことばを聞いたのだ。
「わざわざ山に入って汗をかくと疲れるだけだから、そんなことはおやめなさい」わたしはそう受けとった。

 だが、そうではなかった。
「たいぎい」には、疲れてしんどいという意味のほかに、地元の古老の思わくを刺激して、面倒なことが起こり、もつれた糸がほどけないような深刻なことになる、という意味がこめられていた。
そうなると、散歩するにも道順を変えなければならず、地域の集いにも出られなくなる。それでもやるのか、という意味だった。

 結局、後日それが現実となり、わたしは地元の古老二人に頭をさげてまわった。
同じ山で筍をとっていた古老たちが、数年前から反感をもってわたしを見ていたと知ったからだ。それは「たいぎい」ことが起こる寸前だった。


『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

もものえだ 不登校


  わたしは幼稚園を途中でやめた。
なんとなくではなくて、行くのはやめよう、という明確な意識があった。
近所の友達はみな、幼稚園か小学校に行っていて、昼間はだれも遊び相手がいなかったが、さびしくなかったし、落伍感もなかった。
だが、親は気が気ではなかったろうと思う。周りの子供は元気よく「いってきまーす」と出かけているのに、自分の子供は幼稚園に行かずに一人で遊んでいるのだから。

 今もはっきりと覚えているが、幼稚園はおもしろくないと思ったことが二つある。
昭和二十七年当時、幼稚園は、瀬戸にあった第一小学校の奥に併設されていた。奥がすぼまった三角地で、園舎の両側には山が迫り、奥の笹薮の斜面を駆け上がると池があった。

 園庭には、動物の置物と、鉄パイプでできた四角いジャングルジムがあり、三輪車がおかれていた。
休み時間だったのか、授業の一こまだったのか定かではないが、そこでは顔見知りの男の子、女の子が、またがったり、よじ上ったりして大はしゃぎで遊んでいた。
橫には女の先生がいて、はしゃぐ子供たちを
 「いいあそびをしているね」
という表情をして見、子供が
 「せんせー、ここまで登ったよー」
と声をかけると先生も一緒になってはしゃいだ声をあげていた。
わたしは、それを遠くから見ながら、すこしも楽しい気持ちになれなかった。

 動かない置物の動物にまたがって、何がおもしろいんだろう。
組合わさった四角い鉄棒に登っていばった声をあげて、何がおもしろいんだろう。
あんなものひょいひょいとあがれる。
二三回ペダルをこげばすぐにハンドルを切って曲がらなければならないせせこましい所で三輪車に乗って、何がおもしろいんだろう。
遊具のすべてが単純で子供っぽくて、つまらなかった。
その遊具に夢中になって遊んでいる子供が、いかにもガキっぽく見えた。
これが幼稚園なのか、だったらわざわざ来なくてもいい、と思った。
子供用に造られたもので、子供が夢中になって遊ぶ、先生もそうする子供をほめている、という単相構造に違和感を覚えたのである。

 二つ目は、先生が嫌(いや)だった。まとわりついてくる子供は受け入れてかわいがるが、わたしのようにまとわりついていかない子供を無視する態度が許せなかった。
さびしかったからではない。やっかみからではない。そういう態度をする大人がいることが許せなかった。
嫌になると、服装から顔、張ったあごとつり上がった目までが嫌になった。
その先生はいつもしゃれたワンピースを着ていて、汚れるのを極端にきらっていた。四角い顔に鋭い目、角張ったあごが、好きになれなかった。

 そんなことを知るよしもない母にわたしは
 「幼稚園へいかん」
と言ってその翌日から行かなかった。
母によると、
 「なんでいかんの」
と聞いたら、わたしは
 「先生嫌い」
と答えたという。

 母はそれっきりわたしに何も言わなかった。幼稚園へ行きなさいとも、向かいの子は行っているのにとも言わなかった。今思えば、気が気ではなかったろうと思う。
 だが、何も言われなくて、わたしは助かった。

『もものえだ 古座田辺白浜と四季』収

児島亨と魯迅


児島亨と静子夫人 令息 ①

魯迅は「老板(ローペー)」と言いながら入ってくると、籐の椅子に腰掛けて内山と話していた。私はよく魯迅に映画を見に連れて行ってもらった。ターザン映画が好きで、危険が迫っていたのに、映画館では大きな声をあげて見ていた。横に居る私の方が心配であたりをうかがった。

 魯迅とは『阿Q正伝』『狂人日記』等の小説と『中国小説史略』『古小説鉤沈』等の学術書で知られる魯迅(1881~1936)で、内山とは上海に内山書店を開いた内山完造(1885~1959)、私とは、1933年6月に上海に渡り1945年に帰国するまで内山書店を支え、帰国後は福山市元町で児島書店を開いた児島亨(こじまとおる)(1913~2001)である。(敬称略、以下同じ)

 魯迅が1936年10月19日に逝去するまでの三年間、魯迅と親しく接し、その間、夫人許広平(『暗い夜の記録』岩波新書1955年)からの日常の伝言を受けつぎ、幼児周海嬰(『わが父魯迅』集英社2003年)を居宅で遊ばせたことがあった児島亨が語る魯迅は、どの資料にも未見で、しかも、その観点と表現は、聞く者の心を揺さぶる真実と意外性に満ちている。

 写真は、令夫人静子と令息とともに上海で住んだ当時のもので、上海魯迅紀念館編『中日友好の先駆者魯迅と内山完造写真集』(1995年刊)に掲載されており、児島亨と児島静子は中国においてこそその姿と名は広く知られている。

 研究室では、備後が生んだ文化人児島亨の生涯を研究すべく

1 児島亨の生涯

2 魯迅と児島亨

3 内山完造と児島亨

4 児島亨の著作

5 児島書店の出版事業

の題目のもと基礎資料の収集と調査とを開始した。

 現児島書店店主である佐藤明久氏は、研究室の四年生3名と筆者を温かく迎え、数々の逸話を惜しみなく披露してくれた(2005年5月17日)。旧制中学、上海渡航、結婚、内山書店の商道、日本人と中国人、魯迅の葬儀、上海魯迅紀念館と児島書店、周海嬰と児島書店、紹興魯迅紀念館と児島書店。父児島亨が語っていた日頃の話、みずからの中国での政府高官と文化人との交流の話。言葉にならない嘆息を吐きながら相づちを打つよりほかしかたがないほどに、新しく、かつ意外性に富む内容であった。

 魯迅が病床で筆を執って医師の往診を内山完造に依頼した手紙を書き、それを持って内山書店に駆け込んだ許広平が渡したのは、児島亨であった。後年、上海魯迅紀念館が魯迅と内山完造の写真集を出版するとき、児島書店に藏する、魯迅贈児島亨唐詩七言絶句(銭起「帰雁」詩)の掲載要請を受けて、それを撮影して送付したのは、佐藤明久氏であったという。
魯迅 贈児島亨 銭起「歸雁」詩 ②
『日中友好の先駆者 魯迅と内山完造写真集』上海魯迅紀念館編 ③

周海嬰『わが父魯迅』集英社
 

(画像①②は ③の資料第58頁による)

小尾郊一先生の思い出


「此中有真意 丙辰三月 小尾郊一」
この意味をまだ理解しかねている。小尾先生は退官の際、私にこの言葉を記念に残してくれた。だが、静か荘の四畳半ひと間に戻って一人になったとき、私は色紙に書かれた言葉に押しつぶされそうになった。
お好きな言葉を書いたのだと思った。だが、学生一人ひとりの能力を正確に見通す先生が、おざなりのことをするはずはない。陶淵明の句である。私は、おまえの「此」を見つけよ、「中」でもがけ、「真意」といえるものを突き止めよ、と言われているのだと思った。そう思うとこの五文字が見るみる鉄の重さに変わって私にのしかかった。
暑暇の合間に白浜に帰ると、人は何学部に行っているのかを知りたがった。聞かれるたびに私はヨット部と答えた。どうやらそういう学部で学んでいるらしい。私の黒い顔を見れば誰もが納得した。
河相豊や名越鈴江が言うのなら分かる。しかし私が言うのを聞いて小尾先生はホォと驚いた表情を見せた。大学院に進みたいとは。それを許してくれたのは同じ高津高から来ている山本先輩(故人)の優秀さに重ねて、必ずやと期待したからだと思う。
先生の授業は講義でも演習でも楽しかった。内容が豊かな上に進行中の研究に裏付けられた新しさがあったからだ。私に意味が分かるはずもなかったが、研究の場にいる臨場感が腹の底に伝わってきた。
中国の古典文学のどこに新しさがあるのかと言う人がいるかも知れないが、それを学ぶ者にとっては全てが新しい。だから日夜研究をしていると、枯れることのない泉のように次から次へと新しい発見が出てくるのだ。昨夜研究して得た確信が、翌朝私たち前で語られる。小尾先生の授業はまさにその連続であった。
今から考えると、とてつもなく難しいものを勉強していた。文選の賦を読み、表を読み、啓を読み、李善注の客観性に驚き、音決の科学性に驚いていた。しかし少しも難しいとは感じなかった。それは六朝文学が私たちの生活そのものだったからだと思う。呼吸をするとき酸素を意識しないのと同じだ。私たちは文選を吸って李善注を吐いていた。
黒板に「文學」という字が書かれた。先生の字は黒板でも斜めに傾き撥ねや垂れが細い。白墨はいつも長く新しかった。文学とは何だと思いますか。みなさんは文学部に入って中国文学を研究しています。文学研究とは何を研究することですか。私たちは電子の反復運動のように想をめぐらしたがだれも答えられなかった。文学とは人間です。文学研究とは人間を研究することです。そう聞いたとき、宙を浮いていた視線が吸いよせられて、私たちは雷電に打たれたようになった。ものすごいことを教えてもらった、と思った。
手にしたものを思わず落としそうになるほど感動したのは先生の「六朝に於ける賞といふ字の用例」(支那学研究十)だった。研究室の助手席の橫の書棚の下から二番目に支那学研究が並んでいた。それを借り出して静か荘で読んだように思う。賞が漢代の賞賜から六朝では賞識に移って、鑑賞賞愛等多くの語が生まれたことが論証されていた。論文は渓谷を流れ下る清流のように見えた。水に惹かれて渓流をたどるうちにいつの間にか桃源郷にまぎれ込んだ気がした。論文で感動するとは思いもよらなかった。後に吉川幸次郎が特にこれをとり挙げて小尾先生の研究をたたえているのを知って別の意味でも感動したのだが、これを発表したとき先生は四十歳であった。
似たような経験を南京大学でもした。西苑の部屋で周勛初の「梁代文論三派述要」を読んだときだ。梁武帝と裴子野、簡文帝と徐ゆ、昭明太子と王いん・劉きょう三派の主張が的確な用例をもとに分析されていた。こんぐらかっていた糸がみるみるほぐれて行くようで私は感動した。と、丁度そのときであった。扉をノックする物音に気がついて開けてみると、そこに周勛初が立っていたのである。私は腰を抜かさんばかりに驚いた。勉強のため南大に滞在していた私を宿舎に訪ねてくれたのだった。話のなかでいつ頃書いた論文ですかと尋ねたところ、即座に三十五歳だと周勛初は答えた。
後にも先にも私が感動して読んだ論文は小尾先生の「賞といふ字」と周勛初の「梁代文論」だけである。小尾先生の論文は一九五三年の発表で、周勛初の論文は一九六四年の発表だから小尾先生の方が十一年早い。もしも二人が早い時期に邂逅していたとしたら、例えば小尾先生五十一歳、周勛初三十五歳の一九六四年の早い時期にである。もはや斯界にもたらされる天啓は想像を絶するものであったろうと思われる。お二人が邂逅するのは二十年後の一九八四年、上海復旦大学で開催された日中学者文心雕龍学会であった。そのときどのようなことを話して互いの研究を確認しあったのかお聞きしておくべきだった。
随筆「瀬戸の花嫁」が中国新聞に発表されたのは一九七三年だった。そこに書かれている、イヤホンを耳にあて録音を聞きながら歌いまくって、先生をあぜんとさせぶぜんとさせたのは私であった。名うての文章家である先生の表現の妙であるとはいえ、あぜんぶぜんはこたえた。三十年ほども経った二〇〇二年の頃差し上げた手紙の中で軽く「瀬戸の花嫁」にふれたことがあったが、そのとき先生からあれは表現のあやですからと書かれた返事が届いた。思えば先生はどのような私信にも必ず返事をくれた。これは確かめてはいないが他の先輩や後輩はなおさらそうだと思う。その恕のこころは孔子よりも深い。
随筆が発表されてまもなくの研究室の宴席の乱れた座の中、口べたな私はぎこちない間(ま)で「先生の文章には、思想がありますね」と言ったことがあった。すると先生は赤い顔をした私に目をむけて「ありがたいことを言ってくれます。文章にはそれが一番大事なのです」と真顔で言った。短文の中にも骨となる思想がなければならない、文章を書くときは常にそれを心がけている、と極意を耳打ちされた気がした。私には先生の言葉の中でさきほどの「文學」とこの「思想」が最も深く心に残る。これはひとに伝えて行かなければならないことだとさえ思う。
ところで私はこの二十七年のあいだに「此」を見つけたであろうか。「真意」といえるものを突き止めたであろうか。残念ながら、まだ何一つとして見つけてはいない。だが「中」で、もがいてはいると言えるかもしれない。いつ果てるともしれないこのもがきは先生のせいなのだから、実は苦しくはない。得難い薫陶を受けた幸せに心の底から感謝している。

『中國中世文學研究』第45・46合併号 小尾郊一博士追悼集

杭州の旅 まだ裸電球の中国 

裸電球 杭州の旅     マキとエミとわたし
                                 
  
 その時マキはソファから立ち上がろうとした。目は真剣だった。
私はその反応に戸惑った。マキが立てば私も立たなければならない。
立てばそれを実行に移すことになる。私はまだ迷っていた。

 夜の杭州駅に着いたときからその前兆はあった。沢山の人力車が並び、シャツのボタンをはずした裸の男たちが次から次へと客引きにきた。裸電球の赤い光で照らされた男の胸は汗と埃でべとついていた。

 男たちの口車に乗るのが癪で、わざと無視しつつ人力車の列を突ききって駅前の広場に出た。
 グリーン車にあたる軟座車で、上海から同室だったフランス人の若い夫婦は、最初に声をかけてきた人力車に乗ったのか、いつのまにか姿が見えなくなっていた。

 広場のバス停にはバスを待つ行列ができていた。
 マキとEの二人を同行したこの旅で、値をふっかけてくる人力車に乗るのは避けたかった。中国ではバスが安くて便利なのだということを見せたかった。

 と、急に辺りが騒然とし始めた。人の視線を追うとその先にトラックが見えた。ゆっくりと広場に近づいてくるトラックの荷台は、強烈な明るさのライトに照らされていた。群衆もそのトラックと共に移動してくる。荷台には四人の男が後ろ手に手を縛られて立っていた。ライトはその四人を照らしていた。それが一体何なのか、すぐには分からなかった。だが男たちが四人とも首をうなだれているのを見て察しがついた。

 男たちは犯罪者で今から見せしめための糾弾がこの広場で行われるのだ。話には聞いていたがその光景を目にするのは初めてだった。うなだれて荷台に立つ男たちと、それを見ようと集まる群衆の熱気。夏の暗闇の中で、何もかもが沸き立つようにうごめいていた。すべてがもの哀しかった。魯迅の「阿Q正伝」の世界だった。

 マキとEは杭州の暑さにへばって無口になっていた。私達は夜の十時になろうとするのにまだ宿を決めていなかった。
 これを見ていたらバスがなくなる。バスをあきらめて人力車を拾おうにも、人力車の男たちはこぞって犯罪者見物に出かけて、空の車が並んでいるだけだった。
 私は二人に広場で行われる見せしめとその社会的意義のようなものを説明し、それよりも宿を見つけることが先決であることを告げ、さらにバスに乗るときの心構えをいって聞かせた。

 バスに乗るときは体力がいる。並んで居てもバスが近づくと列はなくなり、止まる前から人はドアに殺到する。殺到した人の群れは車の動きに合わせ、ドアの前から決して離れない。ドアが開くと前から順に入るのではなく、後ろからも横からもわれ先に入ろうとドアに殺到する。ドアに手をかけた最前列の三、四人も決して譲り合わないから、いつまでたっても誰も乗り込めない。その時渦の中にいると猛烈に押されるが、弱気になるとうしろへうしろへとはじき出されて、結局バスに乗れない。覚悟しておけ、私に続け、といった。

 ものすごい圧力と戦ってようやく乗り込むと、二人は「ふーっ」と大きく息を吐いた。隣に立つ人の腕がニチャニチャと肌に触れる満員のバスが動きだした。二つ目のバス停を過ぎたとき、突然出入り口で喧嘩が始まった。乗客の若い男と車掌の若い女が激しく言い争っている。切符のことで男が咎められた風だった。男は次第に反撃する声と言葉のトーンが下がり、車内の雰囲気で男に非があることが分かった。と、その時である。「バチーン」とにぶい音がした。車掌が男の横っ面を張り倒したのである。それを間近に見た二人はまた、「ふーっ」と大きく息を吐いて顔を見合わせた。

 目指す宿は『地球の歩き方』に出ていた。私は降りるバス停を間違えたらしい。一つ手前で降りてしまった。

 西湖畔を北上する道路を歩くと、暑さを避けて散歩する大勢の人とすれ違った。歩きながら西湖の美しさや歴史を説明する私の言葉に二人は「ふーっ」と大きく息を吐き、「はーっ」と相槌をうつだけだった。荷物を持つ手を何度も持ち変えていた。

 ようやくたどり着いた宿には明かりがついていなかった。私はガラス戸をドン、ドンとたたき続けた。
 
  早く出てきてくれ。頼む。もうくたくただ。引率する私のメンツがつぶれる。学生を連れているのだ。
 
すると電気がついて、寝入りばなを起こされたとおぼしき女性が出てきた。私は大きな声で 
 「今夜はここで宿泊したい。部屋は空いているか」
といった。私は耳を疑った。
 「もう営業をしていない。やめて二年になる」
中国ではよくあることだ。その言葉を二人に伝えると、マキとEは倒れるように古びたソファに座り込んだ。錆びたバネが鳴り、埃が舞い上がった。『地球の歩き方』の情報は古かったのだ。

 停留所を二つほど戻るとそこには、安い「旅社」があるという。私たちはまた元の道を戻り始めた。バスはもう無かった。涼を求めて散歩する人もまばらになっていた。靴の中で二倍に腫れ上がった足はズキズキと疼いていた。マキのリュックは肩に食い込んで腰までずり下がっていた。Eの手提げバッグは、右に左にと、頻繁に持ち替えられていた。体格のいいマキはまだ足どりがしっかりしていたが、清楚なEには体力の限界がきていた。歩きながら睡魔に襲われてこくりと居眠りをしていた。何度も、突然立ち止まり、よろけてはマキの腕に掴まっていた。そのたびにマキに傾くEの長い首は汗で青白く光っていた。

 路地をいくつか曲がった所にある「旅社」にたどり着いたときは午前零時に近かった。裸電球が一つ下がっただけの受付に人は居ず、土の床と土の壁とのでこぼこが作り出す影が不気味に長く奥へつづいていた。その先には木と竹で組んだベッドがあった。上下二段になったベッドで、敷かれたワラむしろが薄明かりに浮かんで見えた。泊まり客はいないのか、ベッドに人影はなかった。

 物音を聞いて薄いワンピースを着た女が出てきた。女は客向けのわざとらしい笑みを作って、私たち三人を見た。深夜にやってきた思いがけない泊り客にほくそ笑んでいるみたいだった。笑みは「旅社」の客の少なさを表していた。
 「ベッドは空いている。別棟に案内する」
といった。だが、その笑みが私の心を殺いだ。私は泊まる気を失っていた。

 私一人ならいい。だがマキとEがいる。他人の汗がしみついたベッドと、もぞもぞと這い回る虫を肌に感じ、壁のカビと湿気がもたらす土くさい所で眠る。それに耐えられるだろうか。
 今考えれば耐えられなかったのは私だった。二人は
  「いいですよ、ここで。泊まりましょう」
と口を揃えていった。どこでもいい、早く眠りたい、といっていた。
 
 私達はまた歩き始めた。向かう所は杭州駅に近いホテルだった。深夜でも受付には制服をきたホテルマンがいる。そこにはきれいなシーツとシャワーがある。たとえ部屋がないといわれてもロビーのソファに横になればいい。しかしこれからまた歩かなければならなかった。しかも必死の形相でバスに乗り込んだあの駅まで。この悪魔の泥沼に引きずり込んだのは、明らかに私だった。マキとEはもはや全く喋らなかった。相槌をうつ声は出なかった。
 
 ホテルでは二泊した。快適な部屋と杭州の美しさを満喫した私達は、上海に戻る日の朝、荷物をまとめてロビーのソファに座っていた。
 私は低い声で、料金を払わずこのままホテルから出ることを口にした。ロビーのソファには西洋人の旅行者があふれていた。このまま黙ってホテルを出ても気づかない。
         
 強く反応したのはマキだった。目とひたいが光った。おもしろい、やろうという反応だった。Eは驚きもせず私の顔を静かに見た。純真なEには、私特有の冗談だと映ったらしかった。
 しばらくの沈黙の後、
  「行くぞ」
といった。マキは肘掛けの上の両手に力を入れて立ち上がった。マキの目は真剣だった。

 私はその力強さに戸惑った。マキが立てば私も立たなければならない。立てばそれを実行に移すことになる。しかしもはや後には引けなかった。リュックを持ち上げる動作がゆっくりだったのは私に迷いがあったからだ。私達は立ち上がった。

袁清林『中国環境保護史話』との出会い


 ほん




「私は震撼するほど驚いた。そして、この中国古代の優れた環境保護の伝統を掘り起こして、世の人に知らせなければならないと思った」とは『中国環境保護史話』の著者袁清林のことばだ。
北京からFAXが届いたのは2003730日だった。その880字の文面の中にこう書かれていた。それを見て私は瞑目して天を仰いだ。
実は私が袁清林の『史話』に出会った時も同じように「震撼するほど驚いた」からだ。
袁清林が驚いたのは、中国科学院で環境問題を研究する過程で、中国の古代に環境保護の思想が存在しその制度と法律があったことを知ったからだった。
私が驚いたのは、彼の『史話』を手にして、「虞衡」と呼ばれる古代の環境保護機構の実態が明らかにされているだけでなく、返す刀で現中国の砂漠化、干拓化、森林破壊の悪の実態を鮮やかに切り捨てているからだった。そこには真実を追究する科学者の強い魂があった。
袁清林は古代の環境保護に驚き、私は袁清林の驚きをぶつけて著した書物に驚いたことになる。二つの驚きを串刺しした根源には、中国古代に確立された環境保護の思想とそれを実行した制度があった。
「世の人に知らせなければならないと思った」のは私も同じであった。この書の存在を広く日本に知らせるために、早速翻訳にとりかかった。
袁清林は厖大な古文献を引用していた。その文句に出会うたびに出典をたどりその文献に目を通す。その作業は楽しいものであった。古典文献への知識が増えてくるのが分ったし、国内で入手できない資料は中国旅行をかねて捜しに行ったからだ。とはいえ、難解な文献の場合は何ヶ月もそこで足踏みした。日本語に訳せないからだった。
2003319日。私と袁清林は北京で酒を酌み交わした。酒は沢山飲めないと言った袁清林が顔を真っ赤にして「京酒」をあおる姿に、お前を歓迎するという心が見えて嬉しかった。私は翻訳書を日本で出版したいと言い、袁清林は、それは良い、著作権は要求しないと言った。
冒頭の袁清林のことばは日本で出版する書のために送られてきた序文の中にあった。そこにはまた「文明と野蛮とを分ける分岐点は、地球を愛するかどうか、環境を大事にするかどうかにある」とも書かれていた。この書には袁清林の中国への愛と歴史への敬愛と、私自身の自然への愛と著者への敬愛が詰まっている。

袁清林と初めて会う 『中国の環境保護とその歴史』(研文出版)の 出版にむけて



袁清林氏

中国の環境保護とその歴史』の原著者である袁清林氏と著作権の問題について話し合ってきたところ、原著者と出版社の中国環境科学出版社の二者が倶に、著作権を要求しないとの回答を伝えてきてくれた。これはありがたかった。私は袁清林に謝意を表すために、二〇〇三年三月北京に赴いた。ここにその時の事を記しておく。


 がっしりした体躯に黒のスーツと赤いネクタイを付けた袁清林氏が、ドアの外に立っていた。私は声を挙げて初めて面会する喜びを伝えた。

その日私は北京に着いたばかりだった。氏と会うために十五時間夜行列車に揺られ、十四年ぶりの北京に降り立っていた。タクシーに乗ったものの車が道路に溢れ、北京大学勺園の宿舎に着いたのは一時間後の午後二時だった。今にも雨が降りそうな曇り空だった。携帯に電話をして上京したことを伝えた。

春になれば北京で会いたいと送ったファックスに返事が来たのは、二月のことだった。そこには、「知nin三月将到中国来訪問、熱烈歓迎nin。有朋自遠方来、不亦悅乎?我期待着在北京与nin会面、以便請教和交流。関于拙著的著作権問題、経与出版社聯係、出版社表示不提出要求。根拠?介紹的情況、我本人亦不提出要求。我的移動電話是○○、到達北京前後請告知。」とあり、この時も私は声を挙げて繰り返し読んだ。

部屋に入った氏は持参したものを袋から出し、説明しながら私に渡した。電話を受けて二十分後にはドアの前に立っていた氏に、品物を準備する時間は五分もなかった筈だが、紙袋の中から次から次へと品が出てきた。自ら揮毫した書、近著の本『行草毛澤東詩詞一百首』、北京の銘酒「二鍋頭酒」、海南省特製の珈琲一缶「興隆珈琲」。圧巻は氏の手になる草書体の書一幅であった。縦七十㌢㍍横百四十㌢㍍の画仙紙に、李白の楽府詩「行路難」の一節「長風破浪会有時 直挂雲帆済滄海」が墨痕鮮やか躍動していた。私はその時まで書家袁清林のことは知らなかったが、これはあなたに差し上げていなかったかな、と出した近著『行草毛澤東詩詞一百首』(台海出版社二〇〇〇年)は、書においても第一人者であることを示していた。これはすこし濃い味ですが、という「興隆珈琲」は帰国後試飲してその美味さに驚いた。口に含んだときの、香り、色、嚥下した後に広がる苦味の濃さが絶妙だった。何故珈琲を持参したのかその時は分からなかったが、後に中国熱帯農業科学院熱帯香料飲料作物研究所で作られた製品であることを知って納得が行った。氏の多くの農業科学の著作と、現在の職責、中国老科学技術工作者協会副秘書長とを考えると、熱帯の地海南省の珈琲が氏の手元にあったとしても不思議は無かったからだ。

勺園の部屋の寝台と寝台の間の狭い空間に向き合って腰掛けて話し込んでいると、いつの間にか二時間近く経っていた。腕時計を見た氏は、夕食を一緒にしましょう、下に車があります、と立ち上がった。階下に降りると、黒塗りの大型車に品のいい紳士がいた。私たちが来るまで待っていてくれたのだ。着いた先は中国農業科学院で、院内にある外賓招待所が会食場所であった。そこには氏の要請を受けて集まった男女二人が待っていて、にこやかに迎えてくれた。運転してくれたのは、中国老科学技術工作者協会秘書処辨公室主任の李国慶氏で、女性はその夫人、男性は副主任だと紹介された。

中国の会食は、客人の嗜好に合わせて魚肉の種類と調理法を決めると、当地の名物料理と季節の野菜の検討に入り、その後は点心(包子、餃子、ごま餅等)と果物が決まる。生来質素な食事で事足りてきた純日本人の私などは、満腹さえすればそれでいいのだが、あれが好き、これは嫌いと注文を付ければ付けるほど、熱心に食材と調理法を選んでくれる中国人の優しさに負けて、ついついわがままを言ってしまう。この時は、魚は余り好きではないがエビならいい、包子、餃子が好き、野菜は何でも食べる、と言ってしまった。すると、それを聞いた袁清林は、独自の料理哲学を私に講釈しながら、「日本人」向けに微修正する調理法が確実に厨房に届くようにと念を押して注文してくれた。しばらくすると大きな円卓に並べきれないほどの料理が次から次へと運ばれてきたのはいうまでもない。

「美味しいですね」「食べきれないほどですよ」「もうお腹がぱんぱんに張ってきました」「ほんとに美味しい」と言いながらお箸を動かしていると、「美味しい食事を食べると家に帰りたくなくなるでしょう。それを『喫飽不想家』というのですよ。」と袁清林。「中華料理は色と香りと味の良さが特徴です。それを『色香味美』といいます。」「これは筍ですよ。」と私の皿に運びながら、「蘇東坡の詩に、肉が無くても食事ができるが、筍無しで居ることはできない、というのがありますね。『寧不食無肉、不可居無竹』というのが。食べて見て下さい。今が旬ですからね。」

このように中国では、食事の時に、料理だけではなくて、中国の故事、ことわざ、古典の名句が次から次へと出てくるのが常である。それは年齢が高く学識も高いからだと思われがちだが、私の経験では、小さな子供や若い学生でも、四言、五言の古語名句が、歌を歌うように出てくる。これには感心する。中国では、何かにつけて名言警句を口にし、それをリズム良く朗唱する伝統がある。本来身につけているべき教養が、一定の水準以上保たれているのだ。日本だとこうはいかない。日本にも五七調の小気味よいリズムと古来の名句があるが、それが素養となって身につき、何かにつけて口に出てくるという、小さな子供や若い学生はいない。これは、花や草木の名を知らず、小鳥や昆虫の名を知らない日本人の空っぽさと、根は同じであろう。醜い形や、異常な色をした虫に悲鳴を上げて逃げまどい、悪臭や汚れに、全身で嫌悪感を表す今どきの日本人の軽さとも、根はつながっている。言葉と自然にまつわる体験の貧弱さがそうさせるのだ。わが国で、素養をはぐくむ伝統がなくなったのは痛い。

酒は普段から飲まないという袁清林は、一本の白酒、「京酒」を注文して私に勧めてくれた。私も普段から酒は飲まないので、沢山は飲めませんよといったが、自分も飲むから一緒に飲もうと、杯と杯を合わせて乾杯した。二人ともほぼ同時に顔が赤くなった様子は、見ていてほほえましかったのだろう、瓶を手に注ぎに来る女性の目元が笑っていた。酒に弱くてもアルコールが回れば気分が高揚する。私は、著作権を要求しないという著者への謝意をこめて、次のように言った。「この『中国環境保護史話』を読むと、日本の人々が持つ中国観が覆ります。現在の中国は、経済優先の開放政策のもと、環境破壊が深刻に進んでいるという印象があります。しかし中国では、環境保護を目的とする保護システムが、古代から確立していました。こうした歴史的事実は、日本では、一部の研究者を除いて、一般には知られていません。この本にはそれが詳述されているだけでなく、極めて現代的で切実な環境問題への提言があり、その解決策が示されています。例えば、人間が生きるために山林を開発して耕田を作り、干潟湖沼を埋め立てて耕田を作ったことが、生態の均衡を崩して環境に悪影響を与えたと書かれています。人間が豊かになるための経済活動が環境破壊を招き、その結果、却って経済に損失を与えて人間を貧しくしていると警告しています。日本でも現在進行中のものとして、諫早湾の干拓や、宍道湖の干拓、熊本川辺川のダム建設などがあり、環境破壊とそれに伴う経済と人間生活への悪影響が懸念されています。その意味でも、この本を日本に紹介して、広く読まれるようにしたいと思います。」袁清林は、私の拙い中国語を辛抱強く聞いた後、大きくうなずきながら更に一杯の酒を私に勧めた。
(『中国の環境保護とその歴史』研文出版 あとがき)


石川啄木の生家常光寺に伝わる物




  啄木の生家・常光寺に伝わる物
                     
                                 
 

常光寺御住職に宛てて 
6月15日は記念すべき日でした。私が13歳の頃より親しんだ啄木の歌にうたわれた、北上川、岩手山、姫神山、愛宕の森、そして生家常光寺を訪れることができたのですから。貴寺を訪問した際には御住職御自ら説明をして下さり、感激は一入でした。
啄木誕生の部屋 ②
「石川啄木生誕之地 昭和三十年秋 金田一京助書」の軸と米櫃(中央)
啄木生誕の部屋、およびその庭を見、金田一京助の書を見、宝物が入った桐の箱を見、立て屏風を見て、わずかの時間に啄木生前の時空に入り込んで、眩暈に立ち眩んでおりました。


屏風
米びつの箱書き


屏風




カメラに収めさせて頂いた屏風の書を、こちらに帰って国文学の先生に見せたところ、紀貫之とよみ人しらずの歌であることが分かりました。紀貫之の歌は、

徒ら遊支             つらゆき
桜ちる木能下風の寒可らで             桜ちるこのした風のさむからで
そら尓志ら連怒雪ぞふ里介利             そらにしられぬ雪ぞふりけ
          (屏風の書)                          (読み下し)

よみ人しらずの歌は、

                          よみ人志ら数                                       よみ人しらず
             足引の山路尓ちれる桜花                あしひきの山ぢにちれる桜ばな
             消せ怒春能雪可とぞ見る                きえせぬ春の雪かとぞ見る
          (屏風の書)                          (読み下し)

でした。
この二首は『拾遺和歌集』巻第一春のところに収められた歌で、それと比べてみますと、異同が三個所あります。

一 屏風の紀貫之の歌は一首ですが、『拾遺和歌集』には二首あり、続いてよみ人しらずの歌一首が集録されています。貫之の歌の後に続いてよみ人しらずの歌があるという順序は、『拾遺和歌集』と同じですから、屏風の歌は『拾遺和歌集』を手本として書かれたものでしょう。なぜ貫之の歌一首のみを書いたのか不明ですが、元来は二首有り、それが切り取られた状態で屏風に表装されたのかも知れません。
二 屏風の歌には題がついていませんが、『拾遺和歌集』ではそれぞれの歌に題がついています。紀貫之の二首の題は、「きたの宮のもぎの屏風に」と「亭子院歌合に」で、屏風の貫之の歌は「亭子院歌合に」という題です。ちなみに貫之のもう一首、「きたの宮のもぎの屏風に」の題の歌は「春ふかくなりぬと思ふをさくら花ちるこのもとはまだ雪ぞふる」という歌です。題が書かれていないのは、これを書いた人がわざと書かなかったのか、或いは、手本とした資料に無かったのか、よく分からない所です。
三 『拾遺和歌集』の紀貫之の歌は、「さくらちるこのした風はさむからでそらにしられぬゆきぞふりけ」ですが、屏風の歌は最後が「ふりけ」となっています。これを書いた人が、このように書き違えたのか、或いは、手本とした資料がそうなっていたのか、いずれかだと思われますがよく分からない所です。  
また、米櫃の箱に裏書きされていた言葉を活字に直すと、次のようになります。

       明治維新ノ後當寺維持經營頗ル困難ニ陷リ往々住職ヲ欠キ
       明治廿五年ニ到リテ檀家将サニ離散セントス此ノ際ニ當リ
       本寺報恩寺谷中老師七十餘歳ノ老齢ヲ以テ四里餘ノ山路ヲ跋渉シ當
       寺ニ來往シテ檀務ヲ鞅掌セラル此ノ櫃ハ當時米噌ヲ入レテ持參セラレタルモノ
       ナリ 永ク保存シテ当寺ノ什寶トス
                     明治廿六年四月十七日
       一 金八拾圓也 報恩寺廿七世谷中老師ノ御寄附
                      為常光寺永續基本金
一 田三反四畝五歩 右ハ谷中老師寄附金ノ一部ヲ以テ購入セルモノニシテ常光寺常什ノ飯米ヲ補フ為ナリ
                       報恩寺卅四世大絳叟誌
昭和十三年十月廿一日
         當寺廿四世石成老和尚本葬之日

  この箱書きから推量すると、昭和十三年十月二十一日に常光寺の二十四世石成老和尚の葬儀があり、そこに本寺報恩寺から三十四世の大絳叟(だいこうそう)と称される和尚が参列し、その際に大絳叟和尚が常光寺の二十五世の和尚の求めに応じて、この櫃の由来を書き記したものと思われます。昭和十三年に逝去された常光寺の和尚は、御住職様の祖父に当たるお方でしょうか。昭和十三年の大葬儀に関する記録があれば、当時のことが更に明らかになることと思います。 
  長々と贅言を弄して申し訳ございません。啄木を訪ねて貴寺を訪問したことによって、このような貴寺の宝物に接することができました。職業柄文献を漁っては意味不明の資料に頭をかかえる日々を送っている身にとって、このたびの体験は心躍るものでした。しかもそれが、啄木を通してのことですから、感激も一入でした。
   求めに応じて快くシャッターを押して下さった令夫人によろしくお伝え下さいませ。
常光寺
曹洞宗常光寺の碑
  画像参考文献
①②『石川啄木入門』 監修 岩城之徳 編集 遊座昭吾・近藤典彦 思文閣出版 平成4年11月1日発行